伊衣子の日記

日々感じたこと、思ったことを書くなどします。人間的に成長したいな。

始めちゃったなあ 

遂に作ってしまいました。結構ずっと作りたかったんだけれども。Twitterとは何か違う大きな壁を越えた気がする。いや、多分越えましたね……


この1週間で身の回りの環境がガラッと変わって(浪人生)、その中で気づいて、学んで、考えて。得たものがあると思って文字にせざるを得ませんでした。というか、これ、絶対忘れちゃダメだ!!って思って。色々なことが繋がるなどしたので。前みたいに紙に書いても良いいんだけど、あの時実は、熱が出てて(平熱35.5の人が37超え)(PCR検査受けにいった)(陰性)自室に隔離されてて楽器もなんもできない時に変なテンションで本当に10時間近くかけて書いたので。今、それは出来ず。でも、やっぱり文字にはしておきたくて!!文字に出来るようになりたくて!!


この1年、また人とは違ったことをするので、その中で得るものをきちんと自分のものにしたいなあと思います。何処まで行ってもマイノリティー。勿論、志望校合格したいし、本当にしなくてはいけないと思ってるのだけれど。それだけじゃなくて、広く深い学び、実生活への応用、音楽をやったから、勉強もやるからこその考えなどを大切にしていきたいです。人間的に成長したいです!!私、お願いしますよ!!!!


因みに名前が伊衣子なのは、単純に私が「伊」の字がめちゃめちゃ好きだからです。ありとあらゆる所で名前を設定する時には「伊」を使ってます。生まれ変わるなら伊織っていう名前がいいです。どうでもいい〜


長い長い前置きを書いといて満足し始めてるので、普通に三日坊主説があります。中途半端ガールなので。まあ、それはその時。


初回めっちゃ長いな!(カミナリ)多分今回だけだな!(同)

書きたい事は2、3個あるけど、取り敢えず1つ。


【経験の体系化、言語化

春季講習で思ったこと。英文法の講座でのことです。私、英語が本当に嫌いで苦手で、共テをやらかして全国平均がないくらいだったので(結局、二次で一次選抜落ちしたので使われることもなかった。悲しい)とりました。高1で英表があったと思うんですけど、その頃は高校入ったしバリバリ音楽やるぞ!!っていう人だったので(もし、母校落ちてたら音楽の習い事をさせてもらえない約束だった)まあ、勉強しませんでした。(高3の英表で復習すると思ったら無くてめっちゃ焦った)担任の先生に勉強しないので!って言って呆れられたのが懐かしいです。でも、3年間赤点は取ってないよ先生。


なので、初めて学ぶことばかりでした。恥ずかしい話、他動詞と自動詞の違いを初めて知りました。前置詞つく動詞、つかない動詞あるんだね。目から鱗。 

私は塾の授業 is テクい!(懐)と思っていたのですが、これは違いました。全てが体系化されている。システム。基本的に理論で説明がつく。ある程度パターン化されてるからテクニック的と思う人も一定数いて、好きじゃないかもだけど、私はめちゃめちゃ面白かったです。おら、わくわくすっぞ!!今までやだな〜と思いながら暗記してたのが繋がって、説明がついて、分類できたり応用できたり。全然丸暗記ゲームじゃなかった。得体の知れないものに対して不快感を持つのと同じくして、英語が嫌いだったのではないかと思いました。決して学校の授業が良くないって言いたい訳ではなくて、お金を払って受けに来てるからこそ、一通り学んだからこそ、成り立っているのではあるとは思う。こちとら後が無いしね。


そうこうしてたら、気づいちゃった、気づいちゃった、わーいわい。多分、勉強が出来る人はこれが自分で出来る。きっと学校の授業でもなんでも、自分で分類して共通点と差異を明確に出来る。話を聞いて同時に処理をしていく、スペックの高いパソコンみたいに。私の人生スローガンの中の一つ(いっぱいあるからまたまとめたい)の「言語化」の進化バージョン。言語化してから自分で特徴ごとに整理していく。脳内できちんとインデックスをつけておくこと。私はそれが苦手だから、自分で取り組まずに塾で体系化されたものを取り入れている。塾もそうさせようとしてる。


きっと自分で物事を体系化することが真の理解で、塾が目標とする「応用が効く基礎力」なんだろうなと思う。じゃあ、勉強以外だったら?

きっと音楽でも応用が効くと思う。実技もやっぱり基礎があってからじゃないと曲を演奏するのに限度があると思うから。じゃあ、勉強と音楽は何が違うんだろう。 


私が思う、勉強と音楽の差異は体系化したいものの形が違うこと。勉強(数学を例にするとわかりやすい)は既にある程度公式だとかルールだとかが決められているから、形として見えやすい。つまりは有形というか。だけど音楽は時間芸術で言語化することは難しい。ぼーっとしてたらすぐ通り過ぎちゃう。しかも、そもそも何がルールなのかが分からない。言葉みたいに明確ではないし、無形。芸術分野において才能がある、ないの話はここじゃないのかな〜。形のないものの中である一定の規則性とかコツとか、自分の好みを見つけて、それを自分の中に取り込む。で、表現する。ある意味、翻訳というか、こう解釈しましたよ〜っていう感じというか。『周りの環境(刺激)→翻訳→発信』っていう過程なのかなあと。この時に周りからどんな刺激を得るのかっていうのは、個人によるものだし、全然なんとも思わない人も居ると思う。それにどれだけ気付けるかが、きっと醍醐味で、好きな人は死ぬ程好きでどハマりするんじゃないかなあ。そして表現することも。私も多分、気づくことが好きだった。だけど!これを自分の中で体系化出来なくて、表現できなくて潰れちゃったんだと思う。まあ、正直その前に技術的な部分(ある程度理論で成り立つ部分)がダメで、表現する手持ちが足りなかったっていうのもあるけど。


「音楽だけじゃなくて色々経験するといいよ」ってお師匠先生に言われたことがあって、私は天邪鬼だから「それで上手くなったら困ってないよ〜」なんて思ったんだけど、きっとこの言葉の真意は『沢山経験を積むと、体系化することが感覚的に分かって、他分野との共通点がわ分かるよ』っていうことなんだと思う。色々な分野と繋がることによって広い学びができて、その中から得る何かがきっとあるんじゃないかな。新しく気づく何か。まあ、その時の私は技術の底上げが急務だったから、そこまで考えられてなかったけどね。


たぶん、勉強が1番体系化して自分のものにする事が明確に出来て、教科によってはまったく取る方法が異なる(=他分野の経験)から手っ取り早いんだと思う。だけど、それだけじゃなくてもう少し感覚的なところ(音楽とかスポーツとか趣味でも何でも)でのまた違った刺激を体系化する経験があるときっともっと多角的に物事を、私たちが体系化した経験から見る事ができるんじゃないかな。もしかしたら、これが価値観なのかもしれない。だとしたら学びが出来る今のうちに身につけようとしないとダメだな〜と思ったり。


刺激や学びを自分の中でどう受け止めるのか。物の捉え方を変えるだけでちょっと明確になって、分類ができてシンプルに見えた気がした。主体的な学びは、もしかしたらこういう自己解釈力をつけたいっていうことなのかも知れない。どうなんだろう。分かんないけど。義務教育で見方が変わるだけで生きるのが楽になることを、勉強がちょっと分かる気がすることを教えて欲しかったなあ。主体的がどうのとか言われても正直イメージしづらいから、自分から学ぼうとして考えていくと、できるようになって楽しいよ!っていう事が経験として伝わると、意欲は増して人生が少し豊かになるかも知れないな。


私は話す事が得意ではなくて、咄嗟に言葉にできないからこうやって文字にしているのだけれど、話が上手い人は勉強できる人みたいに色んな話の共通点を探して、どんどん広げていける人なんじゃないかなあと思います。あと、相手の考えを受け入れられるだけの、人によって価値観は違うっていう経験を積んでいるんだと思う。教える事が上手な人も自分で体系化したことを相手に伝えられるから同じだと思う。(友達と話してて思った事なのでまた書きたい)


書き始めたら長文になっちゃったけど、凄くスッキリした。良かった!!勉強頑張ります!!

このことを考えてる中で、また自分の考えとか思う事が沢山出てきたからまた書きたいなあ。

おわり。


ps 某ミッキーマウスの古典の先生と授業まったく同じだったよ。河合の古典はあんな感じ。